【読書】職業としての小説家(村上春樹)

小説家の人生から学ぶ仕事術

僕はそのときに、何の脈絡もなく何の根拠もなく、ふとこう思ったのです。「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と。

 

芸術家の頭の中を、一度で良いからのぞいてみたい。

それが第一級の、それも村上春樹さんのように国際的に評価の高い作家であれば尚更です。

 

普段ビジネスパーソンとして働く私たちにとって、彼の言葉から学ぶことはあるのでしょうか?

私はこの本を、今よりもっと良い仕事をしたい全てのビジネスパーソンにとっての優れた実用書だと考えています。私たちの日々の仕事に役に立つアドバイスに溢れた一冊です。

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

 

環境やツールを変えると新しい発見がある

でもまあ「たぶんこんなものだろう」という見当をつけ、それらしいものを何か月かかけて書いてみたのですが、書き上げたものを読んでみると、自分でもあまり感心しない。(略)「やっぱり僕には、小説を書く才能なんかないんだ」と落ち込みました。

最初から何もかも上手く人なんて、ほんの一握りです。

村上春樹さんも例外ではありません。本書では、処女作『風の歌を聴け』の執筆時のエピソードが語られています。

あらためて考えてみれば、うまく小説が書けなくても、そんなのは当たり前のことです。生まれてこの方、小説なんて一度も書いたことがなかったのだし、最初からそんなにすらすら優れたものが書けるわけがない。

そうした膠着状態を打破するためにはどうすれば良いのか。そこで村上春樹さんが取った「奇策」が、英語で小説を書いてみるというものでした。

発想を根本から転換するために、僕は原稿用紙と万年筆をとりあえず放棄することにしました。万年筆と原稿用紙が目の前にあると、どうしても姿勢が「文学的」になってしまいます。そのかわり押入れにしまっていたオリベッティの英文タイプライターを持ち出しました。それで小説の出だしを、試しに英語で書いてみることにしたのです。とにかく何でもいいから「普通じゃないこと」をやってみようと。

すると英語で書き進める中で、村上さんは小説を書く時の「コツ」を体得していきます。

もちろん僕の英語の作文能力なんて、たかがしれたものです。限られた数の単語を使って、限られた数の構文で文章を書くしかありません。(略)でもそうやって苦労しながら文章を書き進めているうちに、だんだんとそこに僕なりの文章のリズムみたいなものが生まれてきました。

村上さん自身がかなりの読書家です。彼の頭の中には、それまでの読書を通して獲得した、「いかにも小説らしい言葉づかい」がストックされている。

けれどもそれは彼オリジナルの言葉遣いではなく、あくまで第三者の言葉遣いでしかありません。

そこで、敢えて英語で文章を書いてみる。すると自分の書きたい事が、よりナチュラルに書けるという事実を発見します。

とにかくそういう外国語で書く効果の面白さを「発見」し、自分なりに文章を書くリズムを身につけると、僕は英文タイプライターをまた押入れに戻し、もう一度原稿用紙と万年筆を引っ張り出しました。そして机に向かって、英語で書き上げた一章ぶんくらいの文章を、日本語に「翻訳」していきました。翻訳といっても、がちがちの直訳ではなく、どちらかといえば自由な「移植」に近いものです。するとそこには必然的に、新しい日本語の文体が浮かび上がってきます。それは僕自身の独自の文体でもあります。僕が自分の手で見つけた文体です。そのときに「なるほどね、こういう風に日本語を書けばいいんだ」と思いました。まさに目から鱗が落ちる、というところです。

膠着状態に陥ったら、環境やツールを変えてみる。これはビジネスパーソンにも活かせそうなアドバイスです。例えば私自身の例だと、普段パソコンやスマホで読む・書くものを、紙やノートにしてみるだけで、新しい発見を得られるという事がありました。

「普通じゃないこと」をやってみる。 物事が行き詰まったときに、試してみる価値はありそうです。

 

オリジナルな自分になりたければ、行動の量で圧倒する

どうせ仕事をするなら、普通の人にはできない、自分独自のオリジナルな仕事をしたい。

そう思う方であれば、小説家としてオリジナルな作風を評価されている村上さんの考え方に学ぶことは多そうです。村上さんは、何かの作品がオリジナルであることの定義として、次の3点をあげています。

(1)ほかの表現者とは明らかに異なる、独自のスタイル(サウンドなり文体なりフォルムなり色彩なり)を有している。ちょっとみれば(聴けば)その人の表現だと(おおむね)瞬時に理解できなくてはならない。

(2)そのスタイルを、自らの力でヴァージョン・アップできなくてはならない。その経過とともにそのスタイルは成長していく。いつまでも同じ場所に留まっていることはできない。そういう自発的・内在的な自己革新力を有している。

(3)その独自のスタイルは時間の経過とともにスタンダード化し、人々のサイキに吸収され、価値判断基準の一部として取り込まれていかなくてはならない。あるいは後世の表現者の豊かな引用源とならなくてはならない。

(2)について、村上さんは「自己革新力」という言葉を使っています。

何かの「クリエイター」である以上、作り上げた作品に誇りを持っている。けれども、そこに固執してはならない。その成功体験を崩して、新しい作品に取り組んでいく事の重要性を、村上さんはこう指摘します。

そのときには目新しく斬新で、「ほうっ」と感心するんだけど、いつの間にか姿を見かけなくなってしまう。そして何かの拍子に「ああ、そういえば、あんな人もいたっけな」とふと思い起こすだけの存在になってしまう。そういう人々にはたぶん持続力や自己革新力が欠けていた、ということなのでしょう。そのスタイルの質がどうこうという以前に、ある程度のかさの実例を残さなければ「検証の対象にすらならない」ということになります。いくつかのサンプルを並べ、いろんな角度から眺めないと、その表現者のオリジナリティーが立体的に浮かび上がってこないからです。

そして村上さんはクラシック音楽を例にあげて、「オリジナリティー」と「多作であること」の関係性を説明します。

たとえばもしベートーヴェンがその生涯を通じて、九番シンフォニーただ一曲しか作曲していなかったとしたら、ベートーヴェンがどういう作曲家であったかという像はうまく浮かんでこないのではないでしょうか。その巨大な曲がどういう作品的意味を持ち、どれほどのオリジナリティーを持っているかというようなことも、その単体だけではつかみづらいはずです。シンフォニーだけ取り上げても、一番から九番までの「実例」がいちおうクロノロジカルに我々に与えられているからこそ、九番シンフォニーという音楽の持つ偉大性も、その圧倒的なオリジナリティーも、僕らには立体的に、系列的に理解できるわけです。

多作でなければ、経験を積まなければ、その人の「オリジナリティー」は浮かび上がってこない。

だとすれば、大切なのは持続力と自己革新力。つまり過去の成功経験に安住せず、どんどん次の仕事に取り掛かる。そしてその時に、直前の自分の仕事ぶりを少しだけ「アレンジ」してみる。

全ての作品が良作である必要はないと、村上さんは別の著作でも語っています。常に新しいチャレンジの「数」を積み重ね、自分を変えていく努力を続けていく事で、その人の仕事のオリジナリティーが磨かれていきます。

 

夢がなくても構わない

「好きなことを仕事にするのが一番だ」

そういったアドバイスは至る所で目にします。それでは好きなことと仕事を結び付けられない人は、何か間違っているのでしょうか?

そこで村上さんが語るのは、私の言葉で言い換えるなら、「『好きなことがない』ことは武器になる」という逆説的なメッセージです。

僕は(僕自身の経験から)思うんですが、「書くべきことが何もない」というところから出発する場合、エンジンがかかるまではけっこう大変ですが、いったんヴィークルが機動力を得て前に進み始めると、そのあとはかえって楽になります。なぜなら、「書くべきことを持ち合わせていない」というのは、言い換えれば、「なんだって自由に書ける」ということを意味するからです。

自分よりも意志が強い人、やりたい事が明確な人。私たちはそういう人を見ると、つい自分を卑下してしまいがちです。しかし村上さんは、「意志の強さは、必ずしもプラスに働くとは限らない」と指摘します。

それに比べると、最初から重いマテリアルを手にして出発した作家たちは、もちろんみんながみんなそうではありませんが、ある時点で「重さ負け」をしてしまう傾向がなきにしもあらずです。たとえば戦争体験を書くことから出発した作家たちは、それについていくつかの角度からいくつかの作品を書いて発表してしまうと、そのあと多かれ少なかれ「次に何を書けばいいのか?」一旦停止状態に追い込まれることが多いようです。もちろんそこで思い切って方向転換をし、新しいテーマをつかんで、作家として更に成長していく人もいます。また残念ながらうまく方向転換ができずに、力を徐々に失っていく作家もいます。

もちろん、最初から目的意識を持ち、それを成功に繋げられた人も沢山いると思います。村上さんはそれを一概に否定している訳ではありません。

ここで大切なのは、あくまで、「いちばん最初のスタート地点から、明確な目標=夢を持っていなくても、萎縮する必要はない」という事です。

ですから「自分は小説を書くために必要なマテリアルを持ち合わせていない」と思っている人も、あきらめる必要はありません。ちょっと視点を変更すれば、発想を切り換えれば、マテリアルはあなたのまわりにそれこそいくらでも転がっていることがわかるはずです。(略)そこでいちばん大事なことは、繰り返すようですが、「健全な野心を失わない」ということです。それがキーポイントです。

ここで言うマテリアルは、「動機=モチベーション」といった意味合いでしょう。

最初から明確な夢や動機を持っていなくても良い。むしろそうだからこそ、柔軟に周りに目を向けて、チャンスを見つけられるのかもしれません。

 

誰かのアドバイスにムッときた時の対処法

村上さんは小説の草稿ができあがると、それを奥さんや出版社の方にレビューしてもらうそうです。

三者の目線を取り入れて、小説をより良いものとする。その際に、時にはその第三者からもらったアドバイスに、村上さん自身は納得できないケースもあると言います。

でもそのような「第三者導入」プロセスにおいて、僕にはひとつ個人的ルールがあります。それは「けちをつけられた部分があれば、何はともあれ書き直そうぜ」ということです。批判に納得がいかなくても、とにかく指摘を受けた部分があれば、そこを頭から書き直します。指摘に同意できない場合には、相手の助言とはぜんぜん違う方向に書き直したりもします。

でも方向性はともかく、腰を据えてその箇所を書き直し、それを読み直してみると、ほとんどの場合その部分が以前より改良されていることに気づきます。僕は思うのだけど、読んだ人がある部分について何かを指摘するとき、指摘の方向性はともかく、そこには何かしらの問題が含まれていることが多いようです。つまりその部分で小説の流れが、多かれ少なかれつっかえているということです。

「指摘の方向性はともかく」という言葉が面白い。

指摘そのものが100%正しい可能性は低いです。誰もが正しい言葉を用いてアドバイスする力がある訳ではないからです。

けれども、その人がその指摘をしようと思った「違和感」の中に、自分をさらにもう一段階高めるためのヒントが隠されているというのです。

つまり大事なのは、書き直すという行為そのものなのです。作家が「ここをもっとうまく書き直してやろう」と決意して机の前に腰を据え、文章に手を入れる、そういう姿勢そのものが何より重要な意味を持ちます。それに比べれば「どのように書き直すか」という方向性なんて、むしろ二次的なものかもしれません。

これをビジネスパーソンの文脈に置き換えてみます。

私たちが普段働いている中でも、上司や同僚から、自分の仕事を全てポジティブに評価してもらえる訳ではありません。「これは違うんじゃない?」と言われてしまう事もあるでしょう。

そんな時に、「いや、その指摘は間違っている。このままで良い」となるのはもったいない。まだ改良の余地は残されているのです。

 

もちろん他人の意見をすべて鵜呑みにしてはいけない。中には見当外れの意見、不当な意見もあるかもしれません。しかしどのような意見であれ、それが正気なものであれば、そこには何かしらの意味が含まれているはずです。それらの意見は、あなたの頭を少しずつ冷却し、適切な温度へと導いてくれるでしょう。彼らの意見とはすなわち世間であり、あなたの本を読むのは結局のところ世間なのですから。あなたが世間を無視しようとすれば、おそらく世間も同じようにあなたを無視するでしょう。

自己完結した小説を作ってはいけない。村上春樹さんほどの方であれば、当然、自分の書いたものに対する自負の思いは人一倍あるはずです。そんな村上さんが「他者の指摘を効果的に取り入れなさい」と語るからこそ、そのアドバイスに説得力があります。

 

 メンタルの強さが欲しいなら、フィジカルな強さを手にいれる

最後に村上さんは、仕事をする上でのコンディション管理についてこう語っています。

二十代、三十代・・・・・・、そういう時期には生命力が身体にみなぎっていますし、肉体も酷使されることに対して不満を言い立てません。集中力も、必要とあらば比較的簡単に呼び起こせるし、それを高い水準で維持することができます。若いというのは実に素晴らしいことです(もう一回やってみろと言われてもちょっと困りますが)。しかしごく一般的に申し上げて、中年期を迎えるにつれ、残念ながら体力は落ち、瞬発力は低下し、持続力は減退していきます。筋肉は衰え、余分な贅肉が身体に付着していきます。「筋肉は落ちやすく、贅肉はつきやすい」というのが僕らの身体にとっての、ひとつの悲痛なテーゼになります。そしてそのような減退をカバーするには、体力維持のためのコンスタントな人為的努力が欠かせないものになってきます。

村上さんは、元々スポーツが好きだった訳ではありません。子供のころの記憶を以下のように語っています。

僕は小学校から大学まで、体育の授業がいやでいやでしょうがありませんでした。体操着に着替えさせられて、グラウンドに連れて行かれて、やりたくもない運動をさせられるのが苦痛でたまらなかった。だからずっと長いあいだ自分は運動が不得意なんだと思っていました。でも社会に出て、自分の意思でスポーツを始めてみると、これがやたら面白いんです。「運動するのってこんなに楽しいものだったか」と目から鱗がぼろぼろと落ちたような気持ちがしました。じゃあ、これまで学校でやらされていたあの運動とはいったい何だったんだろう? そう思うと茫然としてしまいました。もちろん人それぞれですし、簡単に一般化はできないでしょうが、極端に言えば、学校の体育の授業というのは、人をスポーツ嫌いにさせるために存在しているのではないのか、そういう気さえしました。

 

小説家というのは、典型的な頭脳労働の職業です。それを何十年と続けている村上さんから、「体力が大切だ」という言葉が出てくるのは不思議な気さえします。

しかし、小説家が描くのは、人間の心の奥に潜んでいる闇の部分。そことしっかり真摯に向き合い、言葉に綴っていくためには、スポーツを通して得た集中力と持続力が欠かせないと語ります。

そのような深い闇の力に対抗するには、そして様々な危険と日常的に向き合うためには、どうしてもフィジカルな強さが必要になります。(略)そしてその強さとは、他人と比較してどうこうという強さではなく、自分にとって「必要なだけ」の強さのことです。

「必要なだけ」というのがミソです。ボディービルダーのようなトレーニングをするのではなく、自分の体と対話して、必要なメンテナンスをしっかりとしていくべきということです。

私たちも仕事をしていれば、きれいごとでは済まない事に沢山直面します。その意味で、村上さんの表現する「深い闇の力」という言葉は、私たちも他人事とは言い切れなさそうです。

そこに対抗するための強さを、日々の運動を通して獲得していくことが大切だと村上さんは語ります。特に40代、50代になっても一定の成果を出し続けるためには、体をメンテナンスする事は避けては通れないでしょう。

生きるというのは(多くの場合)うんざりしてしまうような、だらだらとした長期戦です。肉体をたゆまず前に進める努力をすることなく、意志だけを、あるいは魂だけを前向きに強固に保つことは、僕に言わせれば、現実的にほとんど不可能です。人生というのはそんなに甘くはありません。傾向がどちらかひとつに偏れば、人は遅かれ早かれいつか必ず、逆の側からの報復(あるいは揺り戻し)を受けることになります。一方に傾いた秤は、必然的にもとに戻ろうとします。フィジカルな力とスピリチュアルな力は、いわば車の両輪なのです。それらが違いにバランスを取って機能しているとき、最も正しい方向性と、最も有効な力がそこに生じることになります。

これはとてもシンプルな例ですが、もし虫歯がずきずき痛んでいるとしたら、机に向かってじっくり小説を書くことなんてできません。どれだけ立派な構想が頭にあり、小説を書こうとする強い意志があり、豊かな美しい物語を作り出していく才能があなたに備わっていたとしても、もしあなたの肉体が、物理的な激しい痛みに間断なく襲われていたとしたら、執筆に意識を集中することなんてまず不可能ではないでしょうか。

 

コンサルタントの山口周さんは、かつて電通に新卒入社した時の歓迎パーティーの中で、当時の役員の方に成功の秘訣を聞いたところ、こんなアドバイスをもらったと言います。

「君、面白いね。やっぱり健康だよ。健康で楽しく仕事していれば、勝手に周りがつぶれていくから」

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村上春樹さんは1949年生まれ。70歳になろうという今なお、執筆活動を継続し、国際的に高い評価を受けています。

そんな彼の持続力を支えているのも、彼の言葉でいうところの「フィジカルな強さ」なのかもしれません。