【読書】池上彰の教養のススメ(池上彰)

「なぜ教養が必要なのか?」

世界を知り、自然を知り、人を知る。すると、世の理が見えてきます。

 

分かりやすい入門書なら、池上彰さんの本の右に出るものはありません。

かつてNHKにいた時に「週刊こどもニュース」のお父さん役として大活躍。ニュースの本質を、小学生の子どもにも理解できるように報道する、「分かりやすく伝える専門家」です。

 

そんな池上さんだからこそ、「なぜ教養が必要なのか?」という問いにも、分かりやすく答えてくれます。

 

一見すると使えなさそうな知識でも、池上さんの話術を通して見れば、「なるほど、勉強してみたいかも!」となる。その意味で、この本は、読書や勉強のモチベーションを高めるための本とも言えそうです。

 

教養がいかに「使える」ものなのか、教養がいかに「人を知る」ために不可欠なものなのか、教養がいかに「面白くてたまらない」ものなのか。

私の仲間の先生たちと一緒に、考えていきましょう。

 

「何となく読書してみたいけど、何から読めば良いのだろう?」という人にも、この本はオススメです。

この本を読んだ後、もっと新しい本を読みたくなっているはずです。

 

 

 

すぐ役に立つものはすぐ役に立たなくなる

最初に池上さんは、かつてアップル社を立ち上げたスティーブ・ジョブズの成功を話題に出して、教養が役に立つ一例を示します。

このジョブズ、実は大学をドロップアウトして起業しました。その彼が唯一大学でちゃんと学んでいたのがなんだったのかご存知ですか?

コンピュータ? IT? 経営学? いえいえ、違います。なんとカリグラフィーです。

カリグラフィーとは「西洋書道」のこと。

日本にも書道があるように、西洋にも「美しく文字を書く」という文化は存在するのですね。

カリグラフィーは、パソコンの開発に何の役にも立たないように見えます。けれども、のちにジョブズはこんなふうに答えています。

「大学時代、カリグラフィーの面白さにハマった。カリグラフィーに傾倒したからこそ、アップルの初代コンピュータ、マッキントッシュを生むことができた。文字フォントの見栄えに徹底的にこだわること。ユーザーインターフェースを妥協なくデザインすること。持って触って気持ちのいい製品デザインを体現すること。カリグラフィーが私の原点だ」

どうです。カリグラフィーという「究極的に役にたたなさそう」な教養学問が、今のアップルをつくりあげるきっかけとなったのです。アップルのデザインも、フォントの美しさも、ジョブズが大学時代に夢中になったカリグラフィーの影響を受けているのです。

確かにこれには説得力があります。私自身、今この記事をアップルのPCで書いていますが、フォントの美しさや操作感の良さは昔も今も一級品です。他の追随を許さない。

けれどもカリグラフィーを学んでいた時のジョブズ氏は、将来自分がそれを使って世界にヒット商品を打ち立てるとは、きっと予想していなかったことでしょう。成功は、必ずしも予定調和しないのです。ここにこの話のカギがあります。

教養はすぐに役に立ちません。いずれ役に立つかもわかりません。けれども教養はあなたの発想を豊かにしてくれる。つまり「創造的」な力をもたらしてくれる。

未来に必要なのは、「いまはまだないもの」を生むことです。逆にいえば、みんなが使っている「いま役に立つ道具」では、未来を生むことはできません。一見「役に立たない」「関係ない」教養こそが、未来を生む創造的な力となるのです。

 「役に立つか、確証はない。けれども学ぶと、いつかきっと良いことがある」というのは、生産性・コストパフォーマンスの観点から言えば劣後しそうですね。たとえば個人のキャリアについても、会計・財務やマーケティング、WordやExcelなどの基礎的なスキルを学んだ方が、「すぐに役立つ」。

しかしこうした「すぐに役立つ」スキルは、ビジネスパーソンであればある程度学んでいるはずです。つまり、そこが差別化の源泉となることはない。

だからこそ、教養という「総合知」を身につけることが、今ここにない未来を生む道具として、差別化の武器になるのです。

 

ルールを疑い、ルールを創る

教養は、あなたを「ルールを守る側」から「ルールを創る側」にいざなってくれます。

「ルールを創る側」とは、どういうことか。そしてそれと「教養」との間に、何の関係があるのでしょうか。

たとえばスポーツの世界。

1972年の冬季札幌五輪で日本のスキージャンプチームが金銀銅を独占しました。欧州勢はこのあとルールそのものを巧みに改正し、日本チームが優位にならないようにしました。

同じようなことは、柔道でも水泳でもありました。

欧米はしばしば、ルールそのものを変えてしまいます。スポーツだけではありません。政治でも経済でも、です。そんな欧米のやり方を「ずるい」という声が日本では上がります。

でも、人間世界の「ルール」や「条件」は全て、かつて誰かがつくったものです。人がつくったルールが永遠にそのまま続くことはないのです。

自分の専門外のことに疎く、仕事や興味の範囲内でしか生きていないと、これまで当たり前だと思っていたルールや制度が簡単に変わってしまうことに気づきにくくなります。

たとえば、海外旅行に行ったことのある人なら分かるでしょう。

海外諸国では、日本の常識が通用しない瞬間があります。列に平気で割り込まれたり、定価の販売ではなく値段交渉が必要だったり、果ては電車が5時間も遅れたり。それを見ると私たち日本人はつい、「もっと規律正しい行動ができないのか・・・」と思ってしまいます。

でも、考えを逆にしてみれば、海外の人から見て、日本人は「ルールに従いすぎ」なのです。ルールを疑う、ルールを超えるという事に、慣れていない。これはビジネスの世界も同じことです。あるいは外交の世界においても、「日本人はルールメイキングが不得手だ」という指摘をよく聞きます。

ITの世界では、アメリカの起業家たちが新しいルールをどんどん創っていきました。ITビジネスでは、そんなアメリカの起業家たちの創ったルールの上で動いています。勝てるわけがありませんね。さきほどのスポーツの話と同じです。

そして最後に、自身が教授を務める東京工業大学の学生を引き合いに出して、「所与の条件の中でアウトプットを最大化する受験エリート的な方法論は限界にきている」と指摘します。

多くの日本人は、与えられた条件、与えられたルールの下で100点を取ることばかりが得意です。東工大をはじめとする受験エリートはその傾向がとりわけ強い。 

ルールを守るばかりでなく、ルールを創る側に回る。そのときに必要となるのが教養です。フレームワークや、所与の条件や、ルールそのものを疑ってかかる想像力。教養はそんな力を養ってくれます。すると、あらゆる変化が「想定外」ではなくなります。

何も「ルールを創る」とまでいかなくても良いと、個人的には思います。

大切なのは、ルールを疑い、ルールを相対化するということ。それは自分の考えを発展させる「武器」にもなれば、自分の身を守る「防具」にもなる。そのために役立つのが教養なのです。

 

合理主義を突き詰めると、間違った思想に免疫がなくなる

 しかし教養を学ぶことは、前述した通り、確かに生産性・コストパフォーマンスが悪い。「必要なものを必要なだけ学べば良い」という最短ルートを模索する道もあるはずです。この考えを突き詰めると行き着くのが、「合理主義」です。

この本は、池上さんと東工大の教授陣と対話が中心となって書かれています。ここでは、そのうちの一人、文化人類学者の上田紀行教授の話を中心に取り上げてみます。上田教授は、自らが高校生の時に教駒(東京教育大学付属駒場高校、現在の筑波大学付属駒場高校)で学んでいた時のことをこう語ります。

上田 で、もっと自分を型にはめていたことがあって、それは受験勉強的な合理主義です。目の前に試験問題を置かれたら、無自覚にいかに楽をしていかに合理的に100点をとるかだけを考えて頑張ってしまう。

池上 なにえ教駒から東大ストレートですからね。

上田 この受験勉強的な合理主義が身につくと、たとえばどうなるかといいますと、中学や高校の中間試験や期末試験があるじゃないですか。1時間目が地理で2時間目が古文だったとして、間に10分の休みがある。周りはみんな、前の時間の試験の答え合わせをしているわけです。

池上 地理だと、「世界一長い川は?」という問題が出たとして、その答え合わせをしている。わかります。ついやっちゃいますよね。

上田 「ミシシッピ川だろ」「ナイル川だろ」「やべえ、俺、信濃川って書いちゃった」などとバカなことを言い合うわけです。その脇で僕は(お前らはほんとうにバカだなあ)と内心思って、次の試験の古文のテキストを開くわけです。この10分間は古文の暗記にかけるべきであって、いまさらミシシッピだのナイルだの言ったところで、地理の点数は上がらないだろ、と。

池上 なるほど、クールにして合理的ですね。

上田 これはまあ一例なんですが、そうやってあらゆる場面だ合理主義に徹し、効率化をした子が試験では1点でも2点でも点数が高くなるんです。東大入試の時も、中学受験から身につけたその要領の良さが効いたと思います。でも、それって「試験に受かるため」が目的の技術だから、そこに「面白い」や「好き」はなかったりする。僕の場合が、まさにそうでした。

その後、東大の理科二類へ入学した上田教授は、自分よりも学才のある同級生を目の前にして、力の差に落胆してしまいます。

「自分が本当にしたいのは何なんだろう」。そう考えた先に、思い切ってインドに旅行に行ってみたと言います(私はインドの事が好きではありませんが、インドに行って「人生観変わった!」という人、いますよね・・・)。

上田 インドを経験して思ったのは、僕みたいにもともと感性があまり豊かじゃない人間は、日常生活を繰り返していても、都市生活や合理的な思考から自分を脱洗脳できない、ということです。ショック療法で、まったく違うところに身を置いて、あ、自分のこれまでの人生は違うんだと思わないとダメ。となると、出かけていって、そこで考えなくてはならない。(略)

ユルゲン・ハーバーマスという社会学者は「世界生活の植民地化」ということを言っています。私たちの生活世界は、点数を取らなきゃいけないとか、金を稼がなきゃいけないとか、効率化して短時間で最大限のアウトプットを得なきゃいけない、という近代社会の考え方の植民地になってしまっている。つまり、我々は「効率やシステム社会の植民地」に生きている。それに気がつかなきゃいけないと指摘しています。僕もインドに行くまでその植民地で過ごしていることに気づいていなかった。完全に洗脳されていたわけです。

・・・と言いつつ、上田教授はインドに移住したわけではなく、今も日本の大学で教鞭をとっているわけです。私たちも、合理主義 ─上田教授の言うところの「効率やシステム社会の植民地」のくびきから完全に逃れる事は、できないと思います。明日からいきなりジャングルで生活するなんて事はできないし、する必要もありません。

 

それでもなお、上田教授の話のように、合理主義を相対化する考え方を持っておく事は大切です。なぜなら、合理主義を相対化できないと、「間違ったシステム」に取り込まれてしまうリスクが生じるからです。この事を上田教授は、かつてのオウム真理教にの信者を例に挙げて解説します。

上田 オウム真理教に帰依した若者の多くは高学歴者が多い。東大卒や東工大卒や医学部卒の信者もいました。そんな彼らの言葉で一番はっとさせられたのが、「僕が僕の人生を生きている気がしない。誰か別の人の人生を生きさせられているような気がする」。他人事じゃない、と思いましたね。これは、受験システムに乗って、ただテストの点数を競って、やりたいことも情熱もないまま東大に入って惑っていたかつての俺のことじゃないか、と。

合理主義では、目的を明確にし、その目的に役立つという範囲において行動を限定する。シンプルに言えば、世界が閉ざされている訳です。

そして閉ざされた世界には独特の心地よさがある。その目的の一点さえ見つめていれば、外の世界との間に生じる矛盾に目を向ける必要がなくなるからです。 

 

なお、オウム真理教については、コンサルタントの山口周さんが、著書『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』の中で紙幅を割いて分析しています。

オウム真理教では、修行のステージが、小乗から大乗、大乗から金剛乗へと上がっていくという非常に単純でわかりやすい階層を提示した上で、教祖の主張する修行を行えば、あっという間に階層を上りきって解脱することができる、と語られていました。

これはまさに、オウム心理教に帰依していった受験エリートたちが、かつて塾で言われていたのと同じことです。オウム真理教幹部の多くが、事件の後になんらかの手記や回想録を著しています。これらを読むと、彼らのほとんどが、大学を出た後に社会に出たものの、世の中の理不尽さや不条理さに傷つき、憤り、絶望して、オウム心理教に傾斜していったことがわかります。(山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? ─経営における「アート」と「サイエンス」 ─』より)

大学受験というのは、理不尽の存在しないフェアな世界です。そして「合格」という目的もハッキリしている。そうした環境下では、合理主義的な考えが効力を発揮します。そして実際に合格したという成功体験によって、その合理主義的な考え方はますます強化される。

しかし、ひとたび社会に出れば、そこは理不尽さの溢れるカオスの世界。そこに違和感を感じたからこそ、受験エリートたちは、オウム真理教が示した「閉ざされた世界の中における完全性」に、かつて自分が成功体験を得た大学受験の世界に近い魅力を感じてしまった。

純粋培養されたが故の「脆さ」です。合理主義的な考えに慣れすぎていると、間違った思想に対する免疫が弱くなってしまうのではないか」という上田教授、山口さんの問題提起は、私たちも意識しておいた方が良いと思います。

 

人生を複線化することで「脆さ」を克服する

池上さんの本に戻ります。

宗教は、心のよりどころです。そして戦後〜高度経済成長期の日本において、既存の仏教の代わりに宗教の役割を果たしたのが実は「会社」であると、上田教授は語ります。

池上 高度成長期の日本には、宗教は必要なかったということですか。それが今の若者に訊ねると、「私は無宗教です」という答えにつながるのかな。

上田 いえいえ。日本にだってありましたよ、宗教。別の宗教があったんです。

池上 何ですか。

上田 会社です。会社に神や仏がいたんです。終身雇用で年功序列で、いったん会社に入ったら、どんなダメ社員でも給料は上がり続け、最後まで勤め上げられる。現在の生活も未来も保証してくれる。不安を解消してくれる。悪いことをしない限り、絶対に見捨てられることもない。これって、宗教じゃないですか。人間を絶対に見捨てないというのが宗教の教えだとすれば、日本的な会社は宗教だったんです。比喩でもなんでもなく、リアルに宗教的存在だったといってもいい。会社に神と仏が存在して、自分がそこに帰依しているんだったら、他に宗教は必要ないですよね。

池上 葬式仏教と初詣神道とクリスマスキリスト教があればいい、となる。

会社という組織を、経営学のフィルターではなく、別の学問のフィルターから見てみる。すると、経営学では合理的に説明のできない部分を、鮮やかに浮き彫りにすることが可能となります。これも教養の力の一つでしょう。

そしてこの流れは30年前のバブル崩壊を機に変わります。その後は新自由主義的な考え方が「新しい価値観」の候補として浮上します。

池上 大手流通業がのきなみ経営破綻しましたね。バブル崩壊に続いての90年代後半の金融崩壊では、大手金融機関や証券会社が破綻しました。結果、終身雇用も年功序列も絶対つぶれないという会社神話も破綻してしまいました。

上田 大企業さえ簡単につぶれてしまう。リストラだって当たり前になる。年功序列が崩れ、実力主義になる。そうなると、会社の中にいたはずの神様や仏様はどこかへ逃げて行ってしまいます。

池上 ああ、会社の神様仏様が、バブル崩壊でいなくなったんだ。

上田 そのとおり。バブル崩壊とそれに引き続く新自由主義の嵐ですね。その中で明治以来の家制度も核家族化で崩壊している。そうなると、個々の人間は、どこに心のよりどころを持てばいいのか? 日本人みんなが不安に陥りました。オウム事件が起きたのは1995年。まさにバブル崩壊から金融崩壊にかけてのまっただ中でした。

そうして私たちは、新しい心のよりどころを求めます。2018年現在、今なお日本全体として、その答えは見つかっていないのかもしれません。

心のよりどころを見つけていく。その時に大切なのは、人生を「単線」ではなく「複線」にする事だと、池上さんは語ります。

池上 子どもの世界もそうですね。学校でいじめられると逃げ場がない。子どもには学校しか世界がないからです。でもそれこそ、複線的な場所が用意されていて、たとえばアジール(避難地)としての寺子屋のようなところでお坊さんと話ができたりすれば、ああこの世は学校だけが世界じゃないんだ、と救われますよね。

上田 東大に入ったばかりの10代の僕も、試験で効率よく点数をとればいい、という単線の人生をひた走って壁にぶつかった。このままでは死ぬという直感があったので、インドへ行って人生を複線化してきたわけです。

それが価値観のような目に見えないものであれ、物理的な居場所であれ、人生を複線化するというのは、精神的なリスクヘッジになる。逆に単線化してしまうと、それは所属するシステムへの依存度を強める結果となる。

上田 ただね、人生を複線化する、というのは、単線化した人生をひた走る人間から見るとムダなんですよ。

池上 うーん、そうかもしれません。

上田 僕たちが常に合理的に動くロボットなら、単線でいいでしょう。けれども私たちはロボットではない。心も感情も好き嫌いもある。そもそもですね、俺は合理的だ、宗教なんてまやかしだ、カネを基準に勝ち負けを考えれば一番シンプルじゃないか、という合理主義の勝者のような人間が一番負けているわけです。

池上 どういうことでしょう。

上田 だって、「合理主義者」って、偏差値だのお金だの、システムが作ったモノサシに従っているだけの話で、他のモノサシをムダだといって捨ててしまうわけですから、ある意味ではシステムの一番の奴隷ともいえるわけです。システムの中で勝てば勝つほど、個人の存在はそのシステムの軍門に下ることになる。

池上 たしかにそうです。

システムは不変のものではなく、そしてそのシステムの中で自分が認められるとは限りません。

だとすれば、自分の価値観をそのシステムと同化させてしまうのは危険でしょう。そのシステムから自分が見捨てられた瞬間に、「根無し草」になってしまうからです。

だからこそ、人生を意識的に複線化する。それは例えば趣味の世界かもしれませんし、家庭を持つことかもしれません。働き方にしても、案外目的を一つに定めず、あいまいな余地をあえて残しておいた方が、今の不確実な世の中では却って柔軟性があって良いのかもしれません。

 

そしてその「人生の複線化」をする上で大切になるのが、教養を学ぶことです。

 

教養を身につければ、今あるルールを疑うことができる。システムを相対化し、メタ認知する視点を手に入れる。そうする事によって私たちは、人生を複線化し、より確かな足取りで明日を生きていけるのかもしれません。