【読書】ねじまき鳥クロニクル(村上春樹)

大切な何かを取り戻すために

「表面的に見れば、これは馬鹿みたいに単純な話なんだ。僕の奥さんがどこかで男を作って家出した。彼女は離婚したいと言っている。綿谷ノボルの言うように、そんなものはたしかに世間によくある話だ。あれこれ余計なことを考えずに、君と一緒にさっさとクレタ島に行って、すべてを忘れて新しい人生を始めればいいのかもしれない。でも実際には、これは見かけほど単純な話じゃない───僕にはそれがわかっている。君にもそれはわかっている。そうだろう?」 

 

あなたにとって大切な何かが、あなたにとって大切な誰かが、ある日突然姿を消してしまったとしたら。

はじまりはいつも些細な事から。少しずつその「ズレ」が大きくなり、気づいた時に、自分の大切なものが失われている事に気づく。

私たちはどのようにして、見失った大切な何かを取り戻す事ができるのか。村上春樹の小説は「ねじまき鳥クロニクル」は、物語という装置を通してその方法に迫る。

「そこには僕の知らない何かが隠されている。僕はなんとかしてそれを明るいところに引きずり出してみたい」 

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

 

 

  

「あなたには死角がある」

「あなたには死角があるって言ったでしょう。あなたにはそのことがまだわかってないのよ」 

主人公の岡田トオルは、30歳になったタイミングで法律事務所を辞め、出版社に勤める妻・クミコと二人で暮らしていた。ある些細の出来事をきっかけに、「自分は彼女のことを本当に理解できていないのでは?」という疑問を持つようになる。

ひとりの人間が、他のひとりの人間について十全に理解するというのは果して可能なことなのだろうか。

主人公の周囲で、少しずつ不思議なことが起こり始め、やがて妻のクミコは何も言わずに家を出て、主人公の前から姿を消してしまう。

主人公には何か「死角」のようなものがあり、それに向き合わない限り、クミコが彼の元に戻ることはない。ここから妻・クミコを取り戻す、主人公の大きな物語が始まっていく。

 

「自分の目でものを見る訓練をした方がいい」

「そういう細かいことがわりに大事なのよ、ねじまき鳥さん」と笠原メイは僕の目を覗き込むように見ながら言った。「家に帰ってじっくり鏡を見なさい」

主人公の周りに現れるキャラクターはどれも魅力的だ。

17歳の少女・笠原メイ、霊媒師の姉妹・加納クレタと加納マルタ、年老いた軍人・間宮中尉、赤坂ナツメグとその息子・赤坂シナモン。

彼ら・彼女らの物語も、主人公・岡田トオルの物語と共にパラレルに語られていく。それらの物語は時を超えて重なり合い、一つのクロニクル(年代記)を形成する。

「いいですか、岡田様、岡田様もご存じのように、ここは血なまぐさく暴力的な世界です。強くならなくては生き残ってはいけません。でもそれと同時に、どんな小さな音をも聞き逃さないように静かに耳を澄ませていることもとても大事なのです。おわかりになりますか?良いニュースというのは、多くの場合小さな声で語られるのです。どうかそのことを覚えておいてください」 

彼ら・彼女らはそれぞれの方法で主人公に示唆を与え、主人公はその力を借りながら事件の真相に少しずつ迫っていく。その中でも主人公の叔父さんが残してくれたアドバイスが興味深い。

「だとすれば、何かがはっきりとわかるまで、自分の目でものを見る訓練をした方がいいと思う。時間をかけることを恐れてはいけないよ。たっぷりと何かに時間をかけることは、ある意味ではいちばん洗練されたかたちでの復讐なんだ」

「復讐」と僕は少し驚いて言った。「なんですか、その復讐というのは。いったい誰に対する復讐なんですか?」

「まあ、お前にもそのうちに意味はわかるよ」と叔父は笑って言った。

「 世の中の大半の人間は、自分の目でものを見ることができない」と叔父は語る。主人公はそのアドバイスに従い、自分の目でものを見る訓練を積み重ねてゆく。

この本を丁寧に読み取っていくと、物語が後半に進むにつれて、主人公が少しずつ霊感豊かになっていく様子が分かる。それまで見ているつもりで見ていなかったものを、少しずつ感じ取れるようになっていくのだ。

それから僕は息を殺し、じっと耳を澄ませる。そしてそこにあるはずの小さな声を聞き取ろうとする。水しぶきと、音楽と、人々の笑い声の向こうに、僕の耳はその音のない微かな響きを聞く。そこでは誰かが誰かを呼んでいる。誰かが誰かを求めている。声にならない声で。言葉にならない言葉で。

 

証明できない仮説を「信じる」ということ

ここは危険な場所です。あなたは侵入者で、味方と言えるのは私一人です。覚えておいてください。

物語の終盤、主人公はついに、事件の核心へと迫っていく。

たどり着いた暗闇の部屋の中。そこで出会った謎の女性、彼女こそが姿を消した妻・クミコなのではないか。彼は謎の女性を前に、自分の推理を語り始める。

「私を照らさないでね」、奥の部屋から女の声が聞こえた。「その光で私を照らさないって約束してくれる?」

「約束する」と僕は言う。

クミコの姉は幼い頃に自殺していた。主人公はその原因がクミコの兄・綿谷ノボルにあると推理する。

「でも君にはぼんやりとわかっていた。綿谷ノボルが何かの方法でお姉さんを汚して傷つけたということがね。そして自分の血筋の中に何か暗い秘密のようなものがひそんでいて、あるいは自分もそれと無縁ではいられないかもしれないということがね。」

綿谷ノボルは優秀な経済学者であり、今や新進気鋭の衆議院議員として世の注目を集める存在だ。主人公はそれまでに手に入れた情報をもとに、彼の奥底に潜む闇へと迫る。 

「綿谷ノボルは、どうしてか理由はわからないけれど、ある段階で何かのきっかけでその暴力的な能力を飛躍的に強めた。テレビやいろんなメディアを通して、その拡大された力を広く社会に向けることができるようになった。そして彼は今その力を使って、不特定多数の人々が暗闇の中に無意識に隠しているものを、外に引き出そうとしている。それを政治家としての自分のために利用しようとしている。それは本当に危険なことだ。彼の引きずりだすものは、暴力と血に宿命的にまみれている。そしてそれは歴史の奥にあるいちばん深い暗闇にまでまっすぐ結びついている。それは多くの人々を結果的に損ない、失わせるものだ」

主人公に与えられた残り時間は少ない。このチャンスを逃したら、クミコが彼のもとへ戻ることは二度とない。

「それがあなたの想像なのね?」

「いくつもの思いつきをひとつに繋げたものだよ」と僕は言った。「僕にはそれを証明することはできない。それが正しいという根拠はなにもないんだ」

「でも続きが聞きたいわ。もしまだ続きがあるのなら」

そして主人公は全ての推理を語り終える。しかしそれだけでは彼女を取り戻す事はできない。その推理はひとつの推理でしかなく、仮説の域を出ないからだ。論理の力だけでは、目の前の女性がクミコだと証明する事はできない。

「でもさ、もし私がクミコさんじゃなかったとしたら、そのときはどうするの?(略)あなたの確信はほんとうにたしかなの?もう一度じっくり腰を据えて考えてみた方がいいんじゃないかな」

僕はポケットの中のペンシルライトを握り締めていた。そこにいるのはクミコ以外ではありえないと僕は思った。でもそれを証明することはできない。それは結局のところひとつの仮説に過ぎないのだ。ポケットの中で僕の手はべっとりと汗をかいていた。

「君を連れて帰る」と僕は乾いた声で繰り返した。「そのためにここに来たんだ」 

本当に大切なものは、論理だけでは証明できない。そこには「信じる」という論理の飛躍が必要となる。その飛躍を乗り越えた時に、主人公はクミコを取り戻す資格を手にいれる。そして真の敵が姿を現し、主人公は最後の戦いへと向かう。

そのとき、ドアにノックの音が聞こえた。壁に釘を打ち込むような硬い、乾いたノックだった。二回。それからまた二回。前のときと同じノックだった。女が息を呑んだ。

「逃げて」、はっきりとしたクミコの声が僕に言った。「今ならまだあなたは壁を抜けることができる」

僕の考えていることが本当に正しいかどうか、僕にはわからない。でもこの場所にいる僕はそれに勝たなくてはならない。これは僕にとっての戦争なのだ。

「今度はどこにも逃げないよ」と僕はクミコに言った。「僕は君を連れて帰る」

僕はグラスを下に置き、毛糸の帽子を頭にかぶり、脚にはさんでいたバットを手に取った。そしてゆっくりとドアに向かった。

大切な誰かを取り戻すために、私たちは何をすれば良いのか。物語という装置を通して、この本はそれを教えてくれる。

 

※主人公の叔父さんのアドバイスを題材に書いた記事

chrono.hatenadiary.jp