言葉にすることから逃げないこと

仕事をしていて、上司や同僚から「なぜそう考えたの?」と深掘りされ、言葉に詰まってしまった経験はありませんか?

私は何度もあります。悔しいですよね、アレ・・・。

 

そもそも、全てのものごとを、言葉で説明する事はできるのでしょうか?

「言葉で表せないはずがない」派と、「言葉にできない事だってある」派の言い争いは、いろいろな場面で目にするはずです。ある時は社内のディスカッションだったり、ある時は夫婦喧嘩だったり・・・。

 

先に私の立場を表明しておきます。

「言葉にできない事は確かにある。しかし、言葉にすることから逃げてはいけない」。

これが私の立場です。

その私なりの考えを説明するために、まず最初に「言葉のプロ」に登場してもらうことにします。小説家の村上春樹さんです。

 

 

言葉のプロでも、言葉にできないことがある

村上春樹さんは、言葉のプロです。

頭の中でストーリーを組み立て、そこで目撃した景色を言葉に落とし込んでいく。30歳で小説家デビューして以降、およそ40年の時間を、「言葉を紡ぐこと」に注いできました。文章力で彼の右に出るビジネスパーソンはなかなかいないはずです。

 

そんな言葉のプロでも、言葉にするのが難しいものがある。音楽です。

音楽と食べ物について、実のある自分なりの文章を書くというのは、本当にむずかしいんです。それなりの文章技術が必要ですし、その前にまず自分の心持ちを正確に把握しておかなくてはなりません。ソシュール風にいえば、「記号表現」と「記号内容」をどのように上手に重ねていくかということになります。音感や味覚を的確に表すだけの微妙に分化された言語表現・語彙を、僕らは手にしていないのです。それがうまくできるようになると、文章家として一人前と言えるのかもしれません。(村上春樹『村上さんのところ コンプリート版』より)

確かに音楽とは、普段私たちが使う言葉とは異なる成り立ちのメッセージです。あるいは食事(=味覚)もそうかもしれない。

そうしたものを全て言葉で拾いきるのは、原理的に無理がある。少なくとも100%には、到達し得ない。どうしても、言葉で拾いきれない「残余の部分」が生じてしまうことになるのです。

 

対象に対する観察眼を磨けているか?

しかしそれでもなお、村上さんは音楽を言葉で表すことから逃げません。著書『小沢征爾さんと、音楽について話をする』の中で、「小沢征爾スイス国際音楽アカデミー」(ヨーロッパの若手クラシック音楽家の特別合宿)の練習・本番に立ち会った体験をこのように文章にしています。

しかしあるとき、鮮やかな夏の光の中、彼らの間で何かが音もなくスパークしたようだった。昼間の弦楽四重奏においても、夕方のアンサンブルにおいても、とつぜん音がまとまりを見せ始めたのだ。そこには不思議な空気の高まりのようなものがあった。演奏者たちの呼吸が微妙に合い始め、音が美しく空気を響かせるようになり、だんだんハイドンハイドンの音になり、シューベルトシューベルトの音になり、ラヴェルラヴェルの音になっていった。彼らはただ自分の演奏をこなすだけではなく、お互いの演奏を「聴き合う」ようになってきたようだった。「悪くない」と僕は思った。まったく悪くない。そこにはたしかに何かが生まれつつある。

しかしそれでもなお、それは本当の意味での「良き音楽」ではない。そこには薄い膜のようなものが一枚か二枚かかっていて、その音楽が人の心を素直に震わせることの邪魔をしている。・・・(村上春樹小澤征爾さんと、音楽について話をする』より)

・・・ここで一旦ストップします。

もし私たちが、村上春樹さんのすぐ横で一緒にまったく同じ音楽を聴いたとして、私たちはそれを、これと同じ水準で文章に起こすことができるでしょうか。

村上春樹さんのすごいのは、文章力もさることながら、対象に対する観察力の鋭さ・深さです。

そしてその数日後、ジュネーブでのコンサートで聴いたラヴェルは、見違えるほど素晴らしい演奏になっていた。ラヴェルの音楽においてしか見いだせない、したたり落ちるような独特の美しさを、僕はそこに聴き取ることができた。(略)もちろん完璧な演奏というのではない。より深い成熟が生まれる余地は、まだ残されている。しかし本物の「良き音楽」が持たなくてはならない、流れるような緊迫感がそこには漂っていた。そして何より、そこにはひたむきさがあり、若さの喜びがあった。そして薄い膜はきれいに剥がされていた。(同上)

どうですか。皆さんがクラシック音楽に詳しくない人だとしても、村上さんが目の前の演奏を必死に観察している様子は伝わるのではないでしょうか。そうでなければ、ここまで克明な文章は書けないはずなのです。

 

もちろんこの文章には論理性は欠けています。目の前の音楽を文章で表しただけなので、それは当然です。

しかし、村上春樹さんの文章からにじみ出る、対象に対して向き合う姿勢。「言葉にすることから逃げない」という知的態度。そこには私たちも学ぶべきことがありそうです。

 

メモを繰り返す事で知的生産性が向上する

対象と向き合い、言葉にすることから逃げない。

そうした意味では、野球監督の野村克也さんからも学ぶことがありそうです。野球をしていて感じたこと。それをそのままにせず、いつもメモの形で文章化していたと言います。

現役時代から無知無学を自覚していたわたしは、いつもメモ帳をそばに置き、気づいたことや感じたこと、見たこと、聞いたことを書き込んでいた。

なぜメモを大事にするのか。

ひとつ目の理由は、メモをすることが習慣になると、感じることも習慣になるからである。

studyhacker.net

 

野村さんの言葉を意訳すれば、「メモをしない時は、中途半端にしか感じることができない。しかしメモを取ろうとすると、真剣に観察するから感じる量が増える」ということ。メモをする・言葉にする過程を通して、観察対象と向き合う「まなざし」を一段階ブラッシュアップする事ができるのです。

 

この「メモをする・言葉にする事によって観察眼が研ぎ澄まされる」という事象について、ビジネスの言語で解説をしているのがコンサルタントの山口周さんです。

手帳でもカードでも、使う道具はそれぞれの好みでいいと思います。大事なのは「ふっ」と思った疑問や違和感をしっかりと言葉に認める、その瞬間の気持ちをうまく掬い取れるような道具を使いましょう、ということです。(略)

最初は難しいと思うかも知れませんが、繰り返しやっているうちに「問いが浮かんだ瞬間」に対して自分で意識的になれるようになってきます。「心に浮かんだ問い」をきちんと手で捕まえる能力、というのは知的生産の根幹をなす能力になるので繰り返しやって鍛えてください。(山口周『外資系コンサルの知的生産術』より)

対象と真正面に向き合い、小さな疑問や違和感を見逃さずに掴み取り、そこで感じた想いを瞬発力で言葉に落とし込む。その訓練を繰り返していくと、「観察眼の向上」と「文章力の向上」の二者が上向きのスパイラルのように進んでいくようになるのです。それこそが、「自分自身の成長」という観点で見た場合に、言語化に取り組むことの一番のメリットであると言えそうです。

 

つまり大切なのは、対象に向き合うというプロセスそのものなのです。

言葉にできない事はたくさんある。けれども、そこで考えてみて下さい。もしかすると目の前にある対象と向き合う余地は、あなたの中にまだ残されてはいませんか?

その作業のストレッチを怠ると、自らの知的生産性が落ち、さらには観察力も鈍ってしまう。だからこそ、私たちは言葉にすることから逃げてはいけないのです。村上春樹さんが、言葉で音楽を表現することの不可能性を知りながらも、そこに果敢に挑んでいくように。

 

それでも言葉にする事から逃げてはいけない

もちろん、言葉に起こすと、時に物事はその複雑さを失ってしまうのではないか。そうした違和感は100%正しいです。

世の中には何でもシンプルにモデリングしたくなってしまう人もいます。それは却って対象と向き合えていないとも言える。しかし悲しいかな、反論しなければ「その人の勝ち」で終わってしまいます。

だとすれば大切なのは、そのシンプルなモデリングと、現実との間にある差異を、正しく言語化して相手に伝えてあげること。これしか残された道はありません。やはり言葉にすることから、逃げてはいけないのです。そして私にとっては、まさにこのブログを書き続ける事こそが、「言葉にすることから逃げないこと」への一つの挑戦でもあります。

 

18-19世紀のドイツの文豪・ゲーテは、こんな言葉を残しています。

智慧ある者の最高の喜びは、知り得ることを知ろうと努力し尽くし、知り得ないことを静かに敬うことである』

これに倣って言うならば、「言葉にできるものを言葉にしようと努力し尽くし、言葉にできないことを静かに敬う」という姿勢。それこそが、私たちの取るべき答えなのではないでしょうか。

 

なお、言葉にする事の訓練について、「どこから始めれば良いの?」という方に是非オススメしたいのが、赤羽雄二さんの著書『ゼロ秒思考 頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング』です。誰にでもすぐ始められて、すぐに効果がある、ビジネスパーソンにとって本当に優れた参考書だと思います。あるいは冒頭に出てきた小説家・村上春樹さんの別の著書『職業としての小説家』の中でも、一部分ではありますが、「言葉にする」事のヒントとして役立つ内容が書かれています。